優れた経営者やアーティストのセクシーさはどうやってできてる?子どもっぽい自由さと大人っぽい足元の確かさの魅力的アンバランス

■人がアートに触れる理由

夏休み。「なんでわざわざ人は、社会の中で実用的でない、アートや音楽に触れるんだろう?旅に出るんだろう?」と思うことがある。

最近、その目的のひとつには「自分の中のこども性と大人性の解体と再構築」ができることにもあるんじゃないかって思ってる。休暇=「体と心をただ停止させて休む」というイメージがあるけれど、そうではなくて「いつもはガチガチに固まってしまっている自分の社会人としての顔やペルソナを一回はずして、解きほぐす時間」にも使える。

わたしは昔から、こどもっぽいところと大人っぽいところを持ち合わせている人が好きだ。

■こども性とおとな性
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こども性を持ちながら大人になるのって難しい。こども性は無邪気、純粋、素直、いい意味でワクがない。ぶっとんでる。自由。のびのびしてる。大人性は、社会性とか世の中のルール、社会人としてのペルソナ、暗黙のコンセンサス、そういうものをちゃんと理解して身につけ、使いこなしている。この二つがいい具合に配合されている人と会うと、出会ったときすごくうれしくなる。

この人、笑顔がおかしいくらいすてき。何この純粋さ・・・。びっくりするほど自由。よくここまでこういう要素を体の中にキープして世の中で生きてきたね。生き辛い時もあるだろうけど、よく生還して出会えたな。嬉しい。
彼らは、かといってすべてがふわふわしてるんじゃなく、足元はしっかりと現実においていて、仕事がかなりできたり、暮らしが成り立っていたりする。もしくは、その人がぶっとんでる代わりに周りにいる人たちが超現実的で、その人がそのままで表現して生きていくことを社会的にサポートしてくれていたり。

かわいいけど、たくましい。自由奔放だけど、足元がしっかりしてる。
アンバランスで絶妙な魅力は、人間としてのいやらしくないセクシーさにつながる。

■魅力的アンバランスを秘めた人たち
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優れた経営者にも、こういう魅力があると思う。仲の良い女性経営者の友人は、社会的にはバリバリやっていて、常識も世間との協調性もすごく高い。だけど、突っ込んだ話をすると、びっくりするぐらい内面は自由奔放でワクがない。二人で相当おもしろい会話ができて、解放される。でもちゃんと現実ではしっかり生きてる。その両面性を止揚しているから、どこかその魅力にひきつけられて人が寄ってくるし、自由さがあるから次の発想も湧いてくる。

■画家

小さなころ絵を習っていた画家の女性は、もう亡くなったけれど驚くべき無垢さを持っていた。ひとつひとつ日常で起こったことに「感動しすぎやろ!」ってくらい感動してて、一度はわたしがはいていった靴下の色を「まあ!けいちゃん、この色!すばらしいわ・・・!」と、30分位感嘆してほめられたことさえある(笑)わたしが作っていったシュークリームのクリームのおいしさについても、チョコレートの包み紙の銀色について語り合ったこともある。触れているだけでこちらの心が洗われるような人だった。

お子さんもいて、旦那さまは大学の教授で、主婦業もちゃんとこなしているのに、内面は小学生のわたしもびっくりの透明度。でも先生は、何メートルもあるキャンバスに絵を描いていて、作品は濃い色とダイナミックな構成をされており、その小さな体から出てきたものとは思えない激しさがあった。母性があるのに、どこかに怖さもある。絵は晩年に近付くほど海外で大きく評価されていった。小さいながらわたしは「ああ、こんなバランスで生きている人もいるんだ。わたしもそんな風になりたい」と思ったものだった。

■音楽家

そんな話を音楽の世界にいる友人としていたら
「わたしの師匠も今70代だけど、すぐれた芸術家はやっぱりいくつになってもセクシーで魅力があるよ。音楽に向き合ってる姿勢、たたずまいにそれが現れる。今でも20~30代の人が惚れるのもわかる」

「でもさ、ふつうの70代でそんな人いないよね。やっぱりたたずまいや音にその人の内面とか存在のバランスがでるんだよ。自由で美しくて、子どもみたいで、でも世の中で生きてる存在」と言っていた。

音楽の世界でも、一緒に交響曲を奏でている瞬間に「そのひとの音を聞いただけで惚れる」ということがあるらしい。音にその人の存在が出る。素晴らしく溶け合ったときには、もはや異性であることなんて関係なく、同性でも好きになってしまう現象も結構あるらしい。それだけ魅力と存在と表現が一体になってるってことなんだろう。


■怖いけど更新し続けるバランス
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なんでわざわざ人は、社会の中で実用的にはなくてもよさそうなアートや音楽に触れるんだろう?旅に出るんだろう?その目的のひとつには「こども性と大人性の解体と再構築」ができることにもあるんじゃないか?

冒頭でこの問いを持ったけれど、ときどき現実からはぶっとんだ存在に触れることで、自分の中の何かが変わるからじゃないかな。作品や音、空間にそれらがつまっている。

役割もペルソナも、みんなとともにする社会で持っていることは大事だけれど、それが=自分となりすぎると、窮屈で、能面をかぶってとれなくなったように自分を見失い、枯渇してしまう。次が創造できなくなってしまうこともある。

今までのバランスを崩すのは、危うさにも通じるので怖いところもある。けれど、やっぱり魅力的な人はそこに挑戦し、今の自分を現在進行形のバランスに更新して生きていくものだと思う。それができた時に、何かしら新しい仕事のあり方や生き方が生まれ、この世にたったひとりの存在感ができる。

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■著作エッセイ漫画
山カフェ日記~30代、移住8年。人生は自分でデザインする~
山カフェ日記~30代、移住8年。人生は自分でデザインする~ [コミック]


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