「感性の育て方、知ってますか?」ビジネスのために表現を使う人と、表現のためにビジネスを使う人の違い

◾️感性のレッスンは明確化されていない

「けいちゃんの、感じる心はどうやってできたの?」よく、仲良しのデザイン企画会社社長、あっちゃんに聞かれる。

わたし「うーん。感性ってこと?」

あっちゃん「そう。何かと出会ったとき感じるものの広がり。けいちゃんの描くものを見たとき、世界への視点、触れ方がすごく豊かじゃない?こんな感じ方があったんだ!って一緒に感じ取れてゆく感覚がたのしい。内面が豊かだから、アウトプットしたときに独特の何かがでてくる。それは、擦り切れて、枯渇しないためにも大切なことだと思うんだよね」
 

わたし「なるほどね〜。感じる心の育て方は、よく考えてみないとわからない。自分では特別とも思ってなかったし、もっとすごいものを持ってる人たちも沢山知っている。でもきっと、育ってきた土壌があるはずだから、考えてみるね」


確かにこういうこと、よく聞かれるなあ。その度に、ほんとうは何かあるはずなんだけど、膨大な言語化しにくいことがそこにあるような気がして、とても5分や10分、1時間で話すことは出来なさそうだから引っ込めてきた。

小さな頃通っていた美術のアトリエで、蝶の羽や石を顕微鏡で観せてもらった。そこには驚くような模様とデザインがあった。完璧な美しさだと思った。


学校から自転車で家に帰る途中、丘から見える夕方の色、青から赤へ、オレンジへ。その変化を立ち止まって見ていた。


イチョウの葉が黄色く色付いたとき、葉っぱを袋にいっぱいつめて持ち帰り、友達と野点の茶室空間を作った。


最近、わたしはまずじっくり覚えておきたい風景を心に溜めて、それからカメラを撮るようにしている。「記録と記憶は違う」そういった友達のことばを思い出して。SNSに投稿するために、カメラを構えるのは楽しい。視点を持つきっかけにもなる。だけど、いつしかひっくり返ってしまったとき、ゆっくりと眺めることを忘れてしまう。

子供の姿を残しておきたいと思ってカメラを構えているうちに、写真を撮ったという事実だけが残り、胸には何も残っていなかったら寂しいように。落ち葉がはらはら落ちる瞬間の優雅なスピードや、音や、風景の余韻は、感じ取ろうとしなければとどめることができないように。



感性を作るための方法?簡単にいえば、美術館だって小さい頃から足繁く通ったし、本だっていっぱい読んだ。だけど、たぶんこういった日常のなんてことない時間の蓄積が、今のわたしを作っている。
 

◾️答えはないけど育てる土壌。血をめぐらせる旅

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ある意味で、アウトプットの方法、ビジネスに活かす方法はたくさん明示されていて、それらは実際に役立つ。ひたすら書くことや勉強法、テクニックやマニュアル。沢山の人に当てはまるであろうノウハウ。でも、どうやって感性や哲学を作っていくか?豊かなインプットについてはいつも曖昧にされている。


それは美大時代もそうだったし、現実社会でもそう。


「答えがないものだから」「それぞれだから」・・・それはその通りだし、基本的には自分で見つけにいくもの。適当に教えられるよりは放っておいてくれた方が良い時もある。だけど、そこに落ち着きすぎて、「じゃ、めいめいやってね。よろしく」では、触れられなさすぎな気もする。だから見つけて共有化していきたいなと思い始めている。

 
 

美大では日々たくさんの人たちが製作しており、その中には「哲学があるっぽく、薄っぺらいものを軸に、コテ先の表現だけ凝って作ってみました」みたいな作品も多数あった。それらは一瞬「新しい!」なんて言われ、ある程度仕事に結びつく要素は持っているのだが、すぐに消費されて、やがてゴミになる(実際に、わたしの専門は陶芸や立体分野だったので、ほんとうに粗大ゴミになっていったのだ)現象を浴びるほどみた。あちこちの分野からいいものを寄せ集めて自分の作品として提出し、賞をとった末にばれて失脚する人もいた。


表現をしたい人なんて万といて、日々、情報や物体が製造されていく。
わたしも「世の中にはこんなにモノが溢れていて、もう自分が何かを作るべき意味なんてないんじゃないか」と思ったことがある。


自分の浅さを感じざるを得ないこともある。それでも、表現したいという思いは呼吸みたいなもので止まらない。好きなんだ。ということは、「自分だから表現できる、伝えざるを得ない、何か」を育てていくしかない。ほのかで、小さなものでもいいから。そのためにはやっぱり、内面に溜まる肥えた土壌のようなものが必要だと感じる。


美しいものを見たり、読んだり、面白い生き方をしている人たちと会ったり、自然の中で暮らしたり、実践的な生活を開拓したり、仕事を作ったり・・・。それらは、一つ一つゆっくりと、血をめぐらせていくような行為。

◾️ビジネスのために表現を使う人と、表現のためにビジネスを使う人の違い。

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練習や訓練、実践、スピード。それらはもちろん重要だ。だけれど、同時に引き出しに溜めるような生活をすること、自分を環境化するような暮らし方も両立することも大事。

アカデミックとプラグマティックを同時に持つことで、表現は磨かれる面があるし、経済的にも生きていきやすい。ただ、「何のために自分がそれをするのか?」擦り切れてしまわないためには、自分の中心を忘れてはいけない。

「ビジネスのために表現を使う人」と「表現のためにビジネスを使う人」それは、同じように見えて全く違うということが、最近やっとわかった。表面的には同じ結果に至ったとしても、内的には発する根源もプロセスも目指すゴールも、まったく違うものなのだ。
 

ということは、表現において大切にしたいことも、そのための方法論も、マネタイズの仕方も、仕事形態も違ってくる。どちらがいいとか悪いとかいう問題は全くないしお互いに学びあえるところがある。だけど、双方の違いが認識されていないことによる弊害は大きいような気がしている。


一般的な方法論を当てはめると、つぶれてしまう人もいる。才能をつぶさないためには自分の根源やタイプをよく理解すること。方法は活用しながらも、柔らかいところは見落とさず、大切にしてあげてほしい。

◾️大切なものを守るための新しいモデル

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表現からお金を生み出す方法に関しても、しばしば論争が起こる。右の人から見れば左の人が汚く見え、左の人から見れば右の人がバカに見えるものだ。正しい、正しくないではなく、それらは美意識の問題だと捉えている。それぞれにフィットしたやり方をとれたなら、それが一番。めいめいのやり方によって救われる人がいる。新しいモデルを作れるほど、生きる選択肢が世の中に広がってゆく。


ちなみにわたしの場合は、表現が主で、そのためにビジネスがある。表現の質と実を十分担保し、人に役立ててゆけるような仕事のモデルを作りたい。それは今までのノウハウにはないので、実験しながら作っていくしかない。愚かに見えることもあるかもしれないが、表現は死ぬまでずっと続けていきたいことだから、試行錯誤しながら仕事との良い両立を図っていくのだろう。
 

感性・好奇心・感情と客観性・ 洞察力・観察力・知性の育て方。それらの育て方はもう少し解明されていいはずで、もっと豊かにこの世の中に共有化されていけるように、考えたい。

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