ネット時代に巨大化する自己、その中で見失いたくないもの。芸術環境から考える

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「夏休みに、やり残したことはない?」息子に聞くと

「ピザ生地を作るところから、つくりたい」という。


そんなわけで、朝から粉を混ぜて作ることに。


粉、塩、イースト、お水、少しだけオリーブオイル。

ぐるぐる混ぜたら、次はこねる。


わたしは大学の時に陶芸専攻だったので、

こういうとき菊練りが役立つ。



なめらかになったら、
濡れ布巾で包んで、発酵させる。



待ち時間は、プールへ。



お友達をつれて帰ってきた息子は、

みんなでピザ生地を広げ、

トマトソースを塗って、
チーズをかけて、オーブンへ。

焼きたてを「おいしい、おいしい」と喜んで食べ、

あっという間にぺろりと無くなってしまった。

都会と田舎では贅沢の基準が違う


数日前のれいほく合宿では、参加者さんから

「都会の贅沢と田舎の贅沢は基準が違う」という話が出た。




東京でおいしいもの食べようとすると

オーガニックな野菜にしろ、お料理にしろ、

高いお金を払って・・・ということになる。



でもそれは、田舎で家の裏の畑でとれた新鮮さには

負けるし、人とのつながりは感じられない。



また、時間の使い方という意味でも贅沢さが違う。



東京では、毎日かかる生活維持コストのために

働くことが中心となり、生活が犠牲になっていく。



家族の時間はがんばらないと取れないものだし、

食もどれだけ早く出すかが基準になる。



れいほくでは、家族の時間は自然にできていて、

食は豊か。
ゆったりとみんな構えているように見える。



鳥の声、川、食事。

五感で感じるもの。



こういった、身体的な充足を

大事にして生きて行くのも

いいんじゃないかなと感じた。
 



なるほどなあ、と思った。



わたしは、都会がいいとか田舎がいいとか、

そういうことを伝えたいと思ってものを書いたり、

学ぶ場所を作ったりしているのではないんだけれど、



今まで都会的な経験ばかり積み重ねてきた人は、

一度田舎で身体的に暮らしてみるのもいいんじゃないかと思う。



都会と田舎を考える時、

自我と調和のバランスにとって、

役立つものがそこには潜んでいるように思うから。



きっとそれは、「田舎暮らし万歳!」みたいなものではなく

自分というものの範囲を広げたり、

統合していくためのプロセスなんだろう。

芸術環境から考える



「芸術環境を育てるために」という本の中に、

京都造形芸術大学教授の

松井利夫さんと横内敏人さんの対談がある。
少しだけ、抜粋して紹介させていただく。
 

 

芸術環境を育てるために
松井 利夫上村 博
角川学芸出版
2010-03-11



芸術環境としての”和”



松井:さっきの「和」の意識ですよね。



横内:それには何を足すっていうことは

自分の表現が純粋でなくなると
思ってしまう人が多いんだけど、

そうじゃなくって

足し合わせることで
新しい可能性が生まれるということ自体は

全然悪いことではないわけですよ。

ある意味自己がしっかり発育していなかったら、

昔の伝統とか、もっと大きな地球環境とか、

巨大な存在に負けちゃうんですよね。



で、それに単に飲み込まれてしまう。

で、それではやっぱりダメだと思うんですよね。

そこには何のクリエイションもないから。

やっぱり自我というのはしっかり持っていて、

十分に確立しないといけない時期もあると思うんですよ。


だけどそれをストレートに
むき出しにして出してしまうんではなくて、

ある種の謙虚さを持って、

より大きな存在を意識しながら
それとの関係を結んでいくっていうね。


それは建築だけの話ではなくて、

あらゆる表現において
そういう考え方は必要じゃないかと思います。




松井:環境のことを考えていくと、

年間の平均気温が1度上がっただけで
海面の水位が上がったりとか、

ある種が絶滅したりといった現象が

どうやら私たちの経済活動と関係があるらしい。


詳しい因果関係はわかりませんが

見えないところで変なことが起こっていると。


そのことを考えた時に、
私たちの営為と自然環境とは

明確に区分されているわけではなくて、

お互いに関係し合っていることが

みんなの中でも強く意識される時代に
なったんだと思いました。


これまでは「私」と「建築」の対話を

建築の歴史の中で済ませることができましたが、
これからは「環境」の中で

その対話を進めていかざるを得ない時代に
なったということですか?




横内:そうそう。
それはまさにそういう時代だと思います。

建築も美術もなんでもそうだけど、
人間の考え方の表現じゃないですか。


その時代に人間が何を大切に思っていたかっていう、

その人間の拠り所が形になって顕れますよね。


そういう意味でこれからの時代で

人間にとって何が大事なのか

もう一回見つめ直さないといけない時代だと思う。

 

自我と調和のデザイン

 

とても尊敬している松井先生の対談、
響くところが大きいのだけど 

ここで語られていることは、

建築やデザインだけの問題ではないように思う。



お金や経済との付き合い方や

言葉を扱っていく時にも、

そういう意識は重要だ。



自我をつくる段階では、

ある種、都会的なやり方は役立つ。

得意なもの、専門性、スキルを伸ばし、

自我的なものを確立し、

クリエイトできる力を手にいれること。

それはとても大事なことだ。
 


でも、それだけでずっと、生き続けてしまうと、
不具合が出てくる。

 

一軒ずつはいい家に見えても、気が付いたら

街として美しくないバラバラの景観の街が

出来上がってしまうような人生になる。




度がすぎると、人との関係性を分断したり、

お金だけあっても虚しさが付きまとったり、

結局個人としてもうまくいっているようで

幸せではない状況になる。



それは、環境を痛めすぎて、

あとで穴埋めしようとしても

間に合わないような、
そんな状況に似ている。



田舎から学ぶものは、調和的な発想なのだろう。



ただ、最初からそこに馴染もう、

合わせようとすれば、なあなあになる。

 

自我がなく、クリエイトできるものもできないし

現代において地域が地域なりの発展をしていかない。
 


でも、自我を確立し、手立てを持った人たちが、

調和的に世界をえがいていくとどうだろう。



それは、一軒一軒の建物は違えども、

周りの風景と美しく溶け合ってくる状態と似ている。



自分もあるけれど「和」もある。

調和のデザイン。



そういう意味で、
わたしは、都会と田舎どちらかじゃなく、

どちらも経験し、統合していければいいと思っている。



自分自身も、大阪で生まれ京都で学び
高知に入って東京や都市を行ったり来たりし
その上で、大切な地域やコミュニティを軸に
統合的に生きていきたいと思うように。

巨大化する自己の世界で、見失わないように

そこで要になるのは「わたし」のとらえかただ。

建築が建築と人間だけの関係にとどまらないのと同じで
わたしがわたしだけにとどまっているから不具合が起こる。

 

ネット社会で、

わたし、わたし、わたし・・・と、

巨大化した自己がいっぱい立ち上がってゆく現代からこそ



「自分」というものが
「自分だけ」の世界を指し示すものではなく
周りや地域、環境も含むものであることを見失いたくない。

 

自分にとっても、人や地域にとっても、

すてきな世界がクリエイトできるように
見失わないこと。

 
スキル、ツール、手段、エゴ・・・
それらを最初は満たしたとしても 

これ以上に大きな何かを
常に意識して表現し、暮らし、
経済活動をしていくこと。



それが過去も、いまも、未来も、すべてを統合し、 

大切なものを大切にしていくことにつながるから。

今日の質問

あなたにとって、「自分」とはどんな範囲ですか? 

この意識を、今日からの暮らし、仕事に生かしてみて。


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